手をつないで、踊り明かそう

ポルカダイアリー

春が来た

11時過ぎ。窓の外を眺めていて、はっとひらめく。

雲一つない青空。穏やかな天気。

これは、赤ちゃんと散歩に出るべきなのは、こういう日の、こういう時間なのではないか…!

 

寒さも有り、これまでは毎日をほとんど家の中だけで過ごしてきた。したがって、パジャマで1日過ごすことになんら不都合もなかった。

しかし、もう産褥期を過ぎ、隙あらば寝たいという感じでもなくなってきたことだし、これからは寝巻、あるいは部屋着からご近所着に毎朝着替えてもいいかもしれないな。

 

授乳を終えたばかりの息子は安らかによく眠っていたが、わたしが服をああでもないこうでもないと引っ張り出しているうちに目を覚まし、退屈そうになっていた。

声を出し、もしかしたら彼はわたしを呼んでいるのかもしれない。かわいい。うれしい。

 

ようし、散歩に行こう。ベビーカーに乗せて、近くのコンビニまで歩いて行こう。

授乳のお供にと毎日録画している『ブリティッシュ・ベイクオフ』を観ていたら、とてつもなくパンを食べたくなっていたところだ。

 

財布とスマホと家の鍵だけを肩掛けカバンに入れて、家を出る。オムツや哺乳瓶セットは持たない。ごく近所だけをまわって、さっと帰ってくるつもりだ。

玄関のドアを出たところにすぐ段差があって、ベビーカーを出しづらいことが分かった。

 

2人で散歩に行くのははじめてだ。

先日、役所へ行く用事があった時にベビーカーデビューは済ませた。それから、その数日後に夫と3人でお散歩デビューも果たしている。しかし、どちらも車で行った出先からのスタートだった。

 

わたしと息子、近所のお散歩デビューします。

暖かな日差しが降り注ぐ。出発した途端に寝た息子が眩しそうに眉間に皺を寄せるので、シェードを下ろす。たとえ眠っていても、風や音を感じているから散歩の効果はあるんだって育児本のどこかで読んだな。

 

早速、空き地を挟んで1本向こうの通りの家から人が出てくるのに気付く。

大きな犬2頭と一緒だ。シベリアンハスキーかな?ご近所にこんな家族構成のおうちがあったなんて。

目が合い、遠くからこんにちはと言い合う。挨拶に心が弾む。

 

道端にホトケノザが咲いている。最大限にリクライニングを倒しているベビーカーの息子からはどのみち見えない。地面にはたくさんのいのちが宿っているんだよ、と心の中で語り掛ける。

 

角を曲がり、コンビニに向かって歩いていると、前方から似たような出で立ちの人が来る。手押しカートの老人だろうか?乳母車ですれ違うのもなんだか人生だな。

……いや違う、相手もベビーカーだ!

 

急に色めき立つ。少子化の時代、コロナ禍の時代、赤ちゃんに偶然出会うことは難しい。向こうの方も同じ気持ちだったようで、どちらともなく立ち止まり、路肩で立ち話が始まった。

すぐ近くのおうちに同い年の赤ちゃんが産まれていたとは、まったくもって知らなかった。というか、知りようもなかった。わたしたちはアパート、あちらは一軒家。地元ではないわたしにはご近所コミュニティのつてはない。

 

幸い、先方が興味を持って色々訊ねてくださり、わたしとこの子の存在が知るところとなった。これが近所を散歩するということの一つの意義か!

散歩に出た初日から思わぬ成果を得て、満足感たっぷりで別れた。月齢が少し上の赤ちゃんだったが、うちの子と同じくすやすやと寝ていた。子ども同士の出会いは眠りのうちに済まされた。

 

お散歩気分は大変に盛り上がり、まっすぐコンビニへと向かっていた足は自然と脇道へ逸れた。ぐるっと一回りしてから帰りがけに昼食を調達したらよかろう。

陽気に誘われるままぶらぶらと歩く、これぞ散歩というものだ。

 

気ままにベビーカーの旅は続く。目に見えるものを子に実況中継する。寝ているとはいえ、話しかけるのはきっと良いことだろう。

まわりからどう思われるかは分からないが、わたしとしては「2人」で連れ立って歩いているという意識が高まる。親の用事に仕方なく子を伴って連れ回しているのではない。親子の散歩だ。少しじーんとした。

 

飲食物を売る店は付近にあまり無い。

件のコンビニに向けて折り返そうとした時、ふと「あの店」の前を通ってみようと思い付いた。

ネパールカレー店である。小麦粉を捏ねて発酵させたものが食べたいという欲に、ナンはぴったり合致する。

 

この店のナンはとても美味しいし、内装など含めてファンなのだけども、店自体いつ急に休んでいるか分からないという大きな欠点がある。

いつ休んでいるというより、従業員全員が帰国してしまったのではないかと思うくらい長期的に店を閉めていることもある。

「ひょっとしたら、このまま閉店になってしまうかもしれない」と危惧するほど開店が不安定なその店を、期待せずに時折覗くのが習慣のようになっているのだが、なんと、今日は真新しく大きな「ランチ営業中」の旗が立っている!

運命を感じ、勇んで近寄る。今日はここで昼食をテイクアウトしよう、そう心に決める。

 

店の入り口には、高い段差がある。何の変哲もない、店によくあるごく普通の段差だ。しかし、ベビーカーを押したままでは入れないことに愕然とする。

「運良く目をとめた従業員の方が、外まで注文を聞きに来てくれないかな」などと期待を抱くが、もちろんそんなラッキーは起こらない。そもそも店内に人影は見えない。

 

せっかく子どもが機嫌よく眠ってくれているので起こしたくはない。

しかし、たまたまお散歩に出た日にこの店が開店しているだなんて、こっちだってなかなかの「せっかく」である。ハードルではあるが、諦めずに入店してみることにした。

子を抱き上げ、片手でベビーカーを畳むのに手間取る。焦るが結局、空いたスペースにそのまま置かせてもらうことにして、店内に入った。

 

店員さんは初めて出会う方のように思った。本日のカレーを尋ねたが選ばず、チキンカレーにする。

お金を払おうと財布を出したが、左腕は子をしっかりと抱いたままだ。脳内でシミュレーションしたが、どうやっても片手で小銭を出せなくないかとよぎり、またしてもパニックになる。

その時、ペイペイのQRコードが目に入ったのでスマホを出し、無事に片手で支払いを済ませた。助かった。

 

テイクアウト弁当はすぐできますと言うので、店内の小上がりに腰掛け、待つことにした。

奥のテーブルでは、自分と前後して入店した昼休みのサラリーマンが3人、メニューを囲んでいた。

一瞬、以前働いていた会社の人ではと思ったが別にそんなことはなかった。スーツの着こなしが、なんとなくその業界の雰囲気っぽかった。

どうやら若い2人は新入社員、あるいは異動してきたばかりの人のようで、朝の鍵開け当番的なものについて上司風の人が伝授していた。

手前には、カップルがやってきて席に着いた。もう一人男性が入ってきたが、わたし達を含め3組が店内に待っているのを見ると、踵を返し去っていった。

 

ナンとサラダ、チキンティッカ、そしてチキンカレーのお弁当は確かに早く出来上がった。店内のどの組より一番乗りで、とてもありがたい。

受け取って、ベビーカーの下の荷物入れに置く。初めてこの部分を活用するのがカレーのテイクアウトになるとは予想だにしなかった。

ベビーカーは、わたしから見て我が子とカレーの二段構えだ。すごい。彼らを早く、無事にうちに連れて帰ろう。

 

アスファルトの細い裏道を「ガタガタするなぁ」と思いながら歩いていると、後方から真っ赤なスポーツカーが走ってくるのが見えた。そんなことある!?

どう避けるべきかドギマギしていると、こちらを気遣ってか、それとも予定通りにか、途中の角で曲がっていった。

 

オオイヌノフグリや水仙が咲いている。よそさまのお庭には梅やロウバイも満開だ。小型犬や人々も行き交っている。平日日中の、平穏な幸せがそこらにあった。

 

最後に通りがかったごく近所に、そういえば飲食店があった。カフェバーがオープンしたことをすっかり忘れていた。

前回、この店の前に立ったのは昨年の12月だ。まだ赤ん坊はわたしのお腹の中にいて、健康に産み落とせるようせっせと日々ウォーキングに励んでいた頃だ。

子どもが産まれる前にと夫婦でランチに行こうとしたが、OPENの札が掛かっているにも関わらずドアが開かなかったりしたことを思い出した。プレオープンから間もなかったことだし、何かしら表に見えない理由で営業がまばらだったのかもしれない。

かくして、ランチメニューは増えているし、テイクアウトできるドリンクも始まったみたいだし、今後行う予定ですとのことだったモーニングもやっているらしい。店は順調に軌道に乗ったようだというのが一目で分かった。

 

そうか、あれからもう3ヶ月が経ったのだった。急激に月日の流れを感じた。

季節は変わった。赤子は産まれ、外に出られるまでに育った。春だ。