手をつないで、踊り明かそう

ポルカダイアリー

アパート退去と鍵返却

鍵が見つかった!

 

退去についてあれこれ調べていると、返却する鍵は2色あるという。今現在、所在が明らかになっている鍵は普段使いの鍵が2本だけで、その鍵と同色のものも足りない。

そもそも、入居の時にそんな鍵もらったっけ?記憶に無いし、2本しかもらってないんじゃないの~?

何処かに貸与本数が記載されてはいないかと契約書を引っ張り出してきたり、紛失の場合の料金を調べたり、原状回復についてのガイドラインを検索したりなどした。

 

夕飯前にそのことが分かり、気にしないようにしても、もう気が気じゃなかった。

わたしは心配なことがあると頭がそれについていっぱいになってしまうたちで、イライラするし不安になるし焦るし、とにかく状態が良くなくなる。

お風呂上がり、今日まさに梱包したばかりの書類群を引っ張り出しまくる。何処かに鍵が紛れてはいないか。受け取った封筒のまま入っていたりしないか。

そして、よし、とにかくここには無いようだ、と確認。それなら明日以降この部屋の何処かで見つかるか、見つからないようなら退去時にいさぎよくお金を払おう。最近新しく入居した他の部屋は順にカードキーに変更しているし、うまくいけば鍵を紛失したとて料金は請求されないかもしれない。

と、心を決めたその時、子どもと一緒に寝室に行っていた夫が出てきて「鍵あった」という。

 

え?

 

聞けば、ごちゃごちゃと様々なものが置いてあり、なかなか片付けに着手できないでいるそのゾーンに置いてあったという。

「そんなあっさり、見たらあったの?剝き出しで?」

そうだという答えに思わず笑った。なんでそんなところにあるんだよ。あっけないにも程がある。

 

引っ越してきて約8年ほどが経つが、ずっと束のまま無造作に放置されていた鍵。

よくぞ無事だったものだ。それでも、必要としている時に出てきてくれたのだから何も問題はない。

そもそも大事な鍵入れに入れていなかったことについてあれこれ思うことはあるが、結果良ければ全て良しだ。

不安な気持ちを持ち越さずにその日を終えられて良かった。本当に良かった。

 

 

今日は、メルカリで出品していた電化製品も売れた。

新居に必要が無いので、不用品回収で有料引き取りしてしまう前に駄目元で出してみたら意外と人気があったのだ。

3年使って、購入金額の半額以上を回収できるのはなかなか嬉しい。

引っ越し10日前に出品し、数日経って値下げせずに落札してもらえ、ギリギリまで使った上で手放せるのも嬉しい。タイミングが合ってラッキーだった。価格設定と出品タイミングの読みがあたったことに満足している。

部品の一つが手で取れないところに落ちてしまっていて長らく放っておいたが、合わせて送りたいので夫にとってもらうよう頼んだらこれまたうまくとってくれた。

ベランダに打ち捨てていた朝顔用の支柱と、まさかのハンガーで。わたしの中にはなかった作戦だったので、鮮やかで感激した。

自分じゃない力を夫に見るととてもワクワクする。なんか、ざっくりだけど、こういう瞬間が夫婦でいる醍醐味の一つなような気がする。

 

 

仕上げに、以前、どうしても見つからず再発行した銀行通帳も出てきた。

これはもう手数料を払ってしまっているので見つかって悔しい気持ちも若干あるが、それでも「あれ結局出てこないままだったな」というモヤモヤが消えたのはほっとした。

 

この部屋最後の日々だが、なかなかちょっと片付けが面白くなってきた。

引っ越しはとにかく面倒。なんでやっているかというと「もう後戻りができないから」という後ろ向きな答えが最大の理由だけど、それでも少しずつ前に進んでいるよ。

その先に、目指せ新天地。

子の成長はつるを伸ばす朝顔が如く

Eテレでやっていた、恐竜が出てくるドラマを消す時に「恐竜さんだね、がおー」と話しかけたら、じっとわたしの目を見て「がおー」と言ってくれた。嬉しいやら可愛いやらなんだかほっとするやらで朝から泣いちゃった。

 

家人のキャッシュカードを代わりに持っていくだけで良いと事前に伝えられていたので車を走らせてわざわざ向かったが、手続きに暗証番号も必要だった。全くの無駄足。その数分間の間でさえもまたしても子はじっとしていられなくて、仕事中の大人たちをたくさん苦笑いさせてしまう。また行かねばならない。もう件の市役所がトラウマになりそう。

 

折角なのでそのまま足を伸ばして近くの児童館に行き、自由に動き回れなくて不満げな坊やを放ちつつ、施設についての情報収集や利用登録などしようとしたが、駐車場で知り合いに会い「児童館、今入れないみたい」と聞く。なにごと。人が多すぎるかららしい。そういえば夏休みに入ったのか。これは緊急事態だ…。

近くのフォトスポットで軽く写真だけ撮って帰ろうと思うと言っていて、こちらもそうすることにして、お互いの家族写真を撮り合った。ママと子どもの写真は少ないのでとても嬉しい。気を利かせて、ポーズの合間にも何枚も撮ってくれているのが本当に本当に嬉しい。

この人はよく別の遊び場で一緒になるママさんで、時々話す顔見知りくらいの知り合い。うちの子の名前がうろ覚えだったらしく、確認してくれた。間違っていて、謝られた。名前を呼ばなくても邂逅は成り立つのに間違えてまでも確認してくれたのがお人柄だなと感じて、むしろ喜ばしかった。

 

100均に寄っておもちゃを買い足した。梅雨は抜けたが夏の暑い日は外遊びの時間が減るのでいつ何時もストックを切らすべからず。車のおもちゃを買い与えた。気に入ったものを手に持ったままレジ通してもらった。

男の子だから乗り物のおもちゃを、という決め付けはしないことにしていたけど、最近興味が出てきたものだから仕方ない。ついにこの時期が来たか。歓迎すべき発達なのか?

プルバック式の車はお祝いにもらって1つ持っていたが、自分で持って走らせることができるタイプのおもちゃもそろそろ要るなと感じていた。絵本やパズルの車をぶーぶーと言いながら楽しそうに動かしている最近の様子を見ていたら。

この車のおもちゃを手に入れたことにより今日の残りはなんとかなった。何より気に入っているのは見て嬉しい。目の前でタグをちぎったら、それこの車の部品ちゃうの、壊したん、という目で見られて申し訳なかった。

 

はじめてずかんのタッチペンの使い方を急に会得した。今まで楽器的にしか使えてなかったけど、唐突に。まず、親の指を持っていって指差しさせてきたので、それタッチペンでやってみなというつもりで渡したら急に理解したようで、1つ1つをタッチしては名称を聞いて楽しんでいた。特に「かぼちゃ」が何故か面白いようで笑っていた。物の1つ1つに名前があり、それを自分の操作で選んで聞けるのだ、という理解の近くまで来たように思った。こないだまで音が出るスピーカー部分に興味津々で、図鑑側との連動にはあまり興味を示さなかったのに。成長ってすごい。急すぎて両親で驚いた。

 

まもなく1歳7ヶ月を迎える息子は、最近よく寝るようになった。母のマットレスに登って寝付くことを覚えて、運が良ければ朝までそのまま夜通し寝る。たまに夜泣きをして、そういう時は抱くことも水分をとらせることも拒否してまるでその様は烈火の如くだが、授乳だっておしゃぶりだってエンドレスゆらゆらだってしなくても寝るようになるんだな、人は1年半もすると。

言葉も笑顔もコミュニケーションも増えてきて、毎日健康で可愛くて、これ以上望むことはない。幸せすぎてこの夏も相変わらず人生最高です。

並んで歩く雨上がり

お手々をつないで、お散歩できた。

時間にして10分少しだろうか。

家を出て、大きい通りまで出て、ちゃんと歩道を歩いて。まるで危ないことはなかった。前後から車が来たら手を引いて避けられたし、多少水たまりに入っても手を引けばすっと離れられた。奇跡みたいな時間だった。

 

いつものお散歩の時間に、今日は雷雨だった。

夕方、普段は「まだ暑いよ」と宥めてはなんとか17時を越してからお外に出るというのをやっているけど、今日は言うまでもなくお散歩できなかった。

不服そうに家で遊ぶ息子。すると、17時過ぎに雨は止んだ。青空が見えてきた。そして比較的、涼しい。

今からお散歩に行くよ!と興奮して玄関まで出た。

 

思いがけず、子が手に取ったのは、傘だった。

いつものように三輪車に乗せようとしていたが、その可愛らしいスガタヲミテ迷った。そして、もう片方の手を差し出された瞬間、よし、歩いて行くか!と言っていた。

午前は買い物に行って大人しくカートに乗っていてくれた借りもある。久しぶりに、好きに歩こう。

雨や暑さに振り回されて鬱屈していたのはわたしもだったのかもしれない。 

 

歩き始めて少しして、ヒップシートを装着し忘れてきたことに気付いた。

公園など、歩く時には必須である。三輪車の時でさえ、展開に用心して装着することすらある。

調子よく、傘をカタンカタン鳴らしながら歩く息子。雨上がりの空。湿気を含んだ温くも心地良い風。

ま、いっか。と、そのまま子の手を握り歩き続けた。

 

意外や意外、すぐにヒップシートの出番は来なかったし、何処かに駆け出していってしまうこともなかった。

危なげなく道を曲がり、嘘みたいに歩道を歩いた。

その奇跡みたいな10分間、わたしはひたすら幸福を噛み締めていた。

嗚呼、子どもを持つって、こういうことだ。

手をつないで歩いてくれる。小さくて大きな手のぬくもりを、後生大事に生きていこう。

あたたかさを、幸せを、心で抱きしめていた。

 

そして、コンビニの前まで来ると、横断歩道の無い車道を渡ってあっちに行きたいと主張を始めたので、手はつなぐものではなく引っ張り返すリードになった。

絶対に曲げられない意志VSそれだけは許可できない理性。結局、攻防戦の末、抱えてその場を離れることになった。

家へ向かう方角を彼はよく知っている。こっちへは行かないぞ、断固として行かないぞ、という強い抵抗。抱っこからも腕を突っ張り脚を突っ張り逃走する。感心するがこちらも家に連れ帰らねばならない。

ヒップシート、やっぱり必要だった。でも、なんとかなった。

後半は、三輪車導入前と同じく激しい攻防戦となったがそれもまたきっといつかは懐かしさとなるでしょう。

あなたと同じくらい、実はそれ以上に、母も夕方のお散歩は幸せな時間なんだよ。

 

 

ようこそのお届け物

昨日の続きの今日になった。

続編というか、昨日が前編今日が後編という感じ。

ずーんと落ち込む展開だったけど、今日で回収された。ハッピーエンドです。

(物語ならここまでで幕引きだからエンドになる。実際は明日も明後日も日々は続く)

 

市役所に手続きに行ったらご迷惑をかけてしまって落ち込んだ話。

 

polkadiary.hatenablog.com

 

昨夜は散々落ち込んだし、今朝になっても気持ちは晴れないままだった。

今日は今日とて用事が多く、子どもを抱えたまま銀行やスーパーを駆けずり回ったが、なんだかずっとビクビクしていて。

 

誰もわたしたち親子を好きじゃないように感じる。

 

子どもかわいいね、と声をかけられたり、微笑んでもらったりというようなプラスのイベントが起こらない。そんなのは特別だって分かってるのに、それだけでつらい。

店員さんがそっけなかった。お店の流れにうまく乗れなかった。対応が杓子定規でわたしは和を乱してしまった。自意識過剰に被害者感情をこじらせていく。

自分でも分かっている。メンタル崩壊中だから何もかもろくな方に捉えられてないんだって。だけど、なんか、すごくつかれた。泣きそう、と思いながら帰ってきた。

 

そこに電話。昨日話した市役所の人だった。

 

昨日、窓口でご案内しきれなかった事業があるんですよ。こういうの利用してみませんか。と、わざわざ電話をかけてくれたのだ。

 

驚いた。

思えば、昨日は気を遣って切り上げてくださったのだった。動き回る子を連れていると何よりもありがたいのが「短時間」であること、それをよく知ってくださっているということ。

その事業を案内しなくても、わたしたちが利用しなくても、なんの損にも収益にもならないのに電話をかけて誘ってくれたこと。昨日から今日までの間にわたしたちの存在を考えてくれた人が社会に居ること。「繋がれている」と感じて、すごく嬉しかった。

 

それから電話越しではあるけど「昨日は子どもの振る舞いと親の管理不足について注意を受けていたみたいで、その場で気付けずすみませんでした」と伝えて、謝れた。

注意した職員さんとは別の方なので、そのことを聞いて驚いておられた。そして、「子どもを連れて手続きするのなんて大変でしょう。こちらこそ、そんなこと…気にしないでくださいね」と言っていただけた。

自分でも思っていた以上にその出来事は心のつかえになっていたみたいで、優しい言葉に心が決壊してしまった。涙声になるのを隠せなかった。

一緒に子どもを見てくれたからこそ分かる、我が子の奔放さを。知ってくれていることも嬉しかったし、味方になってくれたのも心強かった。

免罪符にしてはいけないが、植え付けられた苦手意識の払拭に役立てさせていただきたいと思う。

 

たくさんの窓口を回り、多くの人に会った一日だった。

その中で、その方だけがその自治体を選んで転入してきた我々に「ありがとうございます」と言ってくれた。

初日から心が折れてしまいかけたけれど、たった一人、この人の存在が、引っ越してきてよかったんだと思わせてくれた。大げさだけど、受け入れてもらえた気がした。

 

きっとこの先も、大歓迎を受ける場だけでは暮らしていけない。

必死なわたしを白い目で見て、もっとなんとかしろよと思われることも多いだろう。

 

頭を下げて、腰を低くして、笑顔を絶やさずに、礼儀正しく常識ある振る舞いをして。愛されないと、愛嬌を振り撒かないと、社会に受け入れてもらえないような気がしている。

世間様のご迷惑になっている存在は、白い目で見られているように思う。

いつも自分だけ必死で、浮いているんじゃないかと感じる。

マイナスポイントを稼がないように、プラスポイントをできるだけ稼げるように、横断歩道で何度も頭を下げたり子どもにバイバイを言わせようとしたりすると、家に帰ってどっと疲れが出る。

いつになったら、まともに周囲と馴染めるんだろうと悲観的になる。

 

だけど、全員じゃない。きっと、全員じゃない。

だから大丈夫。いつかは必ず、大丈夫になる。

 

子どもを育てていこう、新しい街で。

散歩しようね。こわがらずに、いっぱい。今日も明日も、どこまでも。

 

子犬を連れて市役所に行ってはいけません

力いっぱい抵抗されるので抱きかかえ続けることはできない。かといって大人しくそばで待つこともできない。降ろしたら何処までも行く。追いかける。手続きができない。話ができない。

そんな子なら連れてこないでというのが世間一般の正論だろうか。

子どもを連れて何処にも行けない。

 

一歳半健診で「落ち着きの無さ」を指摘され要経過観察となった。

検査項目をクリアできるはずもないのは予め分かっていたことだから、でしょうね、と冷静に受け止めていたつもりだけど日に日に落ち込んでいる。

 

困りごととして発達相談を予約しに行った窓口でこれだ。

わずかな段差のキッズスペース。当然乗り越えて出てくる。歩いていく。興味あるものには触る。

それぐらいなら、と、考えてしまうのは麻痺してるんだろうか。

これだから子育て世代は常識がない、と疎まれているんだろうか。

 

できることならじっとさせたいに決まってる。

できることなら黙らせていたいに決まってる。

でも、できないんだよ。

誰かが家で見ていてくれるならそうしたいのはこっちの方だよ。

 

この歳ならできて当たり前?

できるようになるまで街に出てくるな?

世界は「普通にできる」人のために作られてる?

 

市役所も図書館も病院もスーパーも無理。

いろんな人が居るところこそ居ていい場所と思いたいけどむしろ来ちゃ駄目。

山に閉じこもりたい。

東京ドームに住みたい。

睨まれずに暮らしたい。

 

検査担当の保健師さんに「この様子で買い物とかどうしてんの?」と訊かれた。

連れて歩くのは無理なので「恥ずかしながら抱っこひもです」と答えた。

「カートは?」「乗せようと頑張ってるんですけど嫌がって泣くので急ぐ時は仕方なく抱っこひもの時も」「この歳なのにカート全く使ってないってこと」「だから、入口で挑戦はしてるんですけど」「挑戦、ね」と嘲笑われた。

 

わたしがおかしくて、わたしがだめで、全部がだめなんだと、思う。

 

いつも行く支援センターで、あちこちへ行き来する我が子を汗だくで追いかけ回すわたしのこと、みんなどういう目で見てるんだろう。

かわいそうに、だったらまだいい。

ちゃんとさせてないだらしない親だと思われてるんじゃないか。

 

子の個性も子の成長ペースも何一つ恥じてないのに、わたしは今わたしが恥ずかしい。

 

肩身狭そうに、申し訳無さそうに、生きてないといけないんだなと思う。

わたしの態度を防波堤にして、何処でも子を伸び伸びさせてあげたい。

その思考が既に反社会的なのだろうか。

 

子どもは子どもの場所へ、更に「落ち着きの無い子」は「落ち着きの無い子」の場所へ。

棲み分けていくしかきっとゆるされない。

 

子どもだからを免罪符にしてはいけない。

してはいけないけれど、だって実際、子どもなんだよ。

言うことをきかせられない親だと批判されたとして開き直ったらきっと更に非難される。

 

じゃあ、子ども連れて役所行くのなんてどうすればいいの。そんなのわたしが一番知りたいよ。

乗り越えてほしくないところにちゃんと柵をしてよ。触っちゃいけないものなら出しておかないでよ。連れてこないでほしいなら託児を用意してよ。そうやって設備を整えることを要求する気持ちを抱くのすら図々しい?

これだから子連れ様は、と見えない誰かの声が聞こえる。

 

受付の人に「1歳半、一番歩きたい盛りだね」と笑ってもらえた。この子を受け入れてもらえたと安堵しかけたが「紐でも付けておきたいくらいよね」と言われた。

それ、親が言うならともかくさ。ずしんときた。

まもなく1歳半

よちよち歩きの年下の子が、指差しをして「あ!」と何かを教えてくれた。

同じくらいの月齢の子が、上手にお遊戯をしているのを見た。

母から貰った自分自身の母子手帳に「1歳半、発語20語以上、二語文」と書いてあった。

 

信じられない、と思う。

 

1ヶ月前よりも、昨日よりも、我が子が順調に成長しているのはこのわたしが誰よりも知っているはずなのに、だからこそ、明日すぐにこれらのことができるようにはならないと分かる。

 

無理でしょ。無理だよ。なんでそんな、できるの?

びっくりしちゃう。都市伝説じゃないんだね。

 

できるようになった一つひとつに心から喜ぶ、その一方で確かにある小さな焦り。

誰かにこぼしても「大丈夫」しか返ってこない弱音。

心配しすぎは卑下なのか。自分じゃなく子のことを貶めているのか。

 

気の持ちようだけは、どうにもコントロールできない。未熟な親である。

我が子第一と誰にでも寛容の両立って難しい

子育てってつらい。忍耐がいる。

 

大事な我が子が叩かれたり押されたりしてるのを、許容しなくてはいけない場面がある。

順番を譲るのを言って聞かせるとか、「かーしーて」「いーいーよ」のやり取りを見に付けさせるとかのその手前。まだ自他があいまいな幼子同士のいさかい。

「一緒に仲良く」ができない人間たちの未熟なコミュニケーション。

 

よく行く遊び場での、よく会う親子の話。

ひとつ年の違うその子に息子は近付きすぎて、必ず毎度手を出されている。

 

息子が選んだおもちゃを自分が遊びたいと取り上げたり。

その子が遊んでる遊具に息子が突進するも独り占めしたくて追い出されたり。

もちろん、その子が出したおもちゃに手を出して叩かれたりということもあるけど。

遊んでいた物を取ったわけでもないのに、近くの棚からおもちゃを出して遊び始めただけで羽交い絞めにされたのには血の気が引いた。

 

お互い様?

そうやって笑ってその場を収める自分に、のちのち吐き気がする。

本音を言えば、相手の子をはっ倒してやりたい気持ちだ。

「うちの子も悪いから~」って、悪いとこ探しなんて全然したくもないのに。

 

叩かれて、押されて、それが子ども同士の当たり前だとしても。

目の前で子どもが痛い目に遭っているのを心痛まずに見られるわけない。

理不尽に痛めつけられる、それが社会というものなんだとしても。

今はまだ、柔かい毛布でくるんであげていたい。

 

守りたい。この気持ちがそんなおかしなものか。

遠ざけたい。嘘は付けない本心だ。

 

あなたはどうしてすぐ目を離すのですか。

誰かとおしゃべりしている間に、ほら、また小さい子を泣かせているよ。

そうなってからじゃ遅いのに。

 

あんなに安らげた場で、今は暴力にピリピリしている。

 

それはそれとして、うちの子が加害者にならない保証もなくて。

排除される痛みや悩みを思うと、受け入れる場所であってほしいのも確か。

周りの人に寛容を求めるなら、自分も寛容でいないといけないだろう。

今はその前払いをしているのだと、つとめて言い聞かせている。

が、くすぶる気持ち。怒り悲しみ。言葉にできない我が子の心中を勝手に推し量って泣いている。

 

子も成長して、はやく、危機回避能力が身に付きますように。

見えている地雷を踏むようなことをせず、できるかぎり避けてほしい。

こわがりになってほしいわけじゃないけど、野生の勘って大事だよ。

この場合、野生というより社会性だけれど。

 

叩かれて育った子は叩くことをすぐに覚えてしまいそうで、それがこわい。