手をつないで、踊り明かそう

ポルカダイアリー

ファンターネ!に会いに、遊園地

初めて親子で遊園地に行った。お目当ては「NHKキッズスタジオ」。

毎日観ているEテレ人気番組が一堂に会していて、そこは親にとっても楽しい、期待以上の天国だった。

『おかあさんといっしょ』のコーナーでは、からだ☆ダンダンときんらきらぽんが映る大画面に我が子は釘付けだった。『みいつけた!』のコーナーではオフロスキーさんのなりきりごっこができたし、『いないいないばあっ!』のコーナーでは、なんとピーカーブーのあの衣装を着ている姿を写真に収めることができるのだ!感無量である。

 

今月、1歳2ヶ月を迎える息子はまだ指差しもおしゃべりもしない。親の顔以上に親しんでいるキャラクターたちとはいえ、まず家のテレビ画面の外で認識できるのか、そして認識したとしてそれを表現できるのか、懸念があった。

だが、ワンワンに気付いて振り返り、コッシーを見つめ、ルチータに触れるその手は、その目は、確実に「分かっている」目だった。

歌のお兄さんお姉さん、体操のお兄さんお姉さんの写真を見て声をあげる様子は、知り合いに挨拶するかのごとくだった。

親の心配をよそに、彼なりに楽しんでいるのが伝わってきた。嬉しかった。

1時間足らずの滞在のために、大人入園料2名分、駐車料金、スタジオ入場料3名分を払って連れてきた甲斐はあったと思ったし、Eテレに育ててもらった成長の証を目の当たりにして感激した。

 

次来る時には、もっと違った様子も見せてくれるだろう。「おかあさんといっしょ」には、これからもたっぷりお世話になろう。その頃には、もしかすると一緒に踊ることもできるかもしれない。

まんまとリピーター宣言し、愛息の数ヶ月後の成長を青写真に描きながら、満面の笑みで帰宅したのだった。

 

ところが、その日の昼にツイッターで「1歳半までの子に早期教育としてビデオ教材を見せていると脳の成長に有害だ」と主張している映像をたまたま見てしまった。敬愛する『おかあさんといっしょ』は名指しで全否定されていた。

そんなことない!うちの子はお歌が大好きで、テレビを観て笑うようになったり身体を動かしたり、成長させてもらっている面もあるもん。今日だって現に新しい一面を見せてくれた!と憤りつつも、やはり何事もどっぷりはよくないか…と神妙に反省してしまう。

昼寝から起きてきた息子には、テレビは封印。自己流の語りかけ育児をなんとなく施した。

朝令暮改。なんとまあ、親とは身勝手な生き物か。

鉄の心で

鉄の腕になりたい

11kgのあなたにびくともしない身体になりたい

 

肩が 二の腕が 手首が 腰が 悲鳴をあげる

座りたくて もたれたくて 荷を下ろして休みたくて

軟弱な身体をすげ替えたい

 

あなたは ただ あなただから

 

夜泣きしない子になってほしいとか

他の子に代わってほしいだなんて 決して思わない

 

だけど

ママがこんなでごめんね

 

あと少しだけ もう少しだけ

あなたを抱いていられたら

夢の中へ 優しく誘えるのに

 

抱っこで痛む わたしの左半身と

泣き声で痛む わたしの心と

 

ママを呼ぶ声で拒否される パパ

引越してきたばかりの 階下の住人

誰もを傷つけ 迷惑をかけていると分かっていても

耐えきれず 降ろしてしまい 泣かせてしまう

 

機械のママじゃなくてごめんね

平日の私的利用は禁じられております

どうしても子育てに気乗りしない日というのがあって、それが今日で

 

お散歩に連れて行かずに家にいたい

漫画を読みたいゲームをしたい

好きな音楽を聴きたい

一人になりたい

 

だけど

その自由を

わたしだけの時間を手に入れるためには

まず母親の義務を果たさなくてはならなくて

 

子どもを寝かしつける前にわたしがわたしのことをすることはできないし

子どもが泣いているのに横目にお菓子を食べることはできない

 

がんばりたくないのならがんばらないといけない

経験上身に沁みて分かってるのに、その手前でぐずぐずと

燃費の悪い走り方をしている

 

あなたに寄り添えない

 

ママがあなたのママでごめんね

ママがわたしでごめんね

 

私的な今日なんて贅沢を求めてごめんね

おやつの風景

いちご2粒

小さなパンケーキ

細かく切って くっつかないお皿に乗せて

 

母親が口に運んであげなくても

自分一人でつかんで食べてる

 

ちっちゃなお手手

指でつまんで 往復して

 

もう、赤ちゃんじゃないなぁ

ちっさいけど立派に子どもだなぁ

 

日曜日のおやつの風景

気楽で誇らしくて少し寂しい 自立の姿

想うほどには

こんなことで泣かなくても、と自分でも分かるくらいに些細なことで、泣いた。

涙がつーっと溢れて、子どもに不思議そうな顔をされた。

心配させてごめんね。ママ、まだ産後から抜け切ってないみたい。

もう1年になるのにね。あなたはもうすぐ1才になるのに、ママは成長できてないや。

 

 

今日は、オムツ宅配の日だった。

自治体が取り組んでくれている子育て支援の一つで、月に一度オムツなどの注文品を届けがてら様子を見に来てくれるというもの。今月で満1才を迎えるにあたり、その最終回だった。

わたしは、待っていた。

先月は児童館に行く日で配達員さんと直接会えず、子どもを見てもらう機会を一つ逃したことが惜しくてならなかった。

今日は最終回でもあるし、ぜひ子どもを見て、その成長を一緒に喜んでほしかった。人見知りであんなにギャン泣きした日もありましたよね、と笑って終わりたかった。

 

このオムツ宅配、子育て支援で有名な某市がアピールすることも多く、保護者の孤立対策や虐待発見などの意義も含めよく褒められているのを目にするが、実際はわずかに難有りなシステムである。

第一に、注文は月に一度、配達の3週間前までに確定させなければいけない。初めての子育てでオムツのサイズアップも手探りな中、もう少し期限が配達日に近ければ様子見しやすいのに…と思うことも少なくなかった。

第二に、配達時間は指定できない。9:30~14:00の間に伺います、とメールが来る。おそろしく身動きが取れない。置き配も可能だが、直接会わないで済ませられるのでは理念に沿っていないだろうと思うのだった。

 

そんな不自由もありつつ、月に1度の予定は楽しみだった。顔と名前を覚えた配達員さんに、話を聞いてもらえる。「お母さん、困ったことない?」それはただの聞き取り作業だと理解しつつも、対話は嬉しかった。社交辞令だとしても、大きくなったね、と子どもを可愛がってくれるのはその1ヶ月の頑張りを認められたようだった。

誰かに会うという機会が少ないがために、異常に重たく捉えてしまっていた。

 

最終回の今日、朝から待っていたが来なかった。そろそろ来るかなという時間に外に出てみたが来ないので、子どもをベビーカーに乗せ、家が見える範囲でうろうろしてみた。近隣の、いつもなら我が家に来た後に寄っている家の前にトラックがあるのが見えた。玄関先で談笑している様子が見える。じゃあこの次か、と待った。が、来なかった。再度見に行ってみるともうトラックは何処にも居なかった。

朝寝させてのちしばらく待ったが、結局午前中には来なかった。宅配を受け取ったあとそのままの流れで買い物に行こうと準備をしていたが、諦めて昼食にした。いつもよりも遅いお昼を食べさせていると、その時トラックが家の前に止まった。何故、今。

 

逡巡したが、慌てて玄関先に出た。「いつもより遅くなってごめんなさい」「こちらこそ、今お昼食べさせてて」「それじゃあ、すぐ戻った方がいいね」

最後だし子どもにも会ってほしくて、ちょっと連れてきましょうか。と言ったが、当たり前に断られた。それは紛うことなき気遣いだった。長々と引き留められて子どもにお昼を食べさせられなかった、なんてクレームを受けたくもないだろうし。

だけど、子どもを見てほしいのは本心だった。

早口の「何か困ったことない?」には「無いです」と言うしかなかった。ここで、実は…なんて長々話し出したらどうかしている。

いつもより配達に時間がかかっているということは、ノルマを回り切れていないのだろう。これ幸いと、急いでいるように見えた。

「それでは、ありがとうございました」

来訪者は、子どもの顔を見ることなく去っていった。

今日、思い描いていた風景は全て崩れ去った。

大げさに言うと、小さな夢と言ってもいい。叶わなかった。

 

短時間で済んで助かったのは事実だ。子どものご飯を優先させるのも親として当然だ。

だけど、タイミングさえ合えば、理想の最終回を迎えられたはずだったのに、実現しなかったことが悔しかった。

せめて「会えないのは残念だけど、〇〇ちゃんに会いたかったわ」と言ってほしかったんだと、後から思った。

その気持ちを求めていたんだと。仕事でやって来ているただの他人に求めてしまっていたんだと。

なんて孤独なんだ、わたし。お話に出てくる、人里離れた家に住む老人がお客に大喜びするみたいな、滑稽な姿。

落ち込む自己認識だった。

 

 

惨めさが、別の惨めさを連ねて引き出してくる。

友人が「今度行くね」と言ったまま、訪ねてきてはくれていないこと。

 

関西には「行けたら行く」を信じてはいけないという共通認識がある。

他県からやってきたわたしはその文化に馴染むまでしばらくかかったが、今はもうちゃんと、期待を少なく持つようにしている。

だけど、春になったら会いに行くよと自ら言ってくれて、交通手段まで確認してくれた友人。

秋の連休で訪ねるね、と具体的に約束してくれていた別の友人。

みんなまだ我が子に会いに来てくれていない。

本当は、社交辞令だったのかもしれない。

そう考えるとこちらからは催促もしづらい。何しろ、差し出せるものは何もない。遠路はるばる来てもらっても、何もメリットを与えてあげられない。見せてあげられるのは子だけ。こんなにかわいい我が子だけ。でもそれって、親バカの押し付けじゃない?

 

来て来て、見て、会って、と一方的に求める気持ちの痛々しさを、今日のような時にふと思い知らされる。

想うほどには想われていないことを、痛いほど教え込まれている。

みんな、わたしよりも大事なものがあるんだと、当然の事実に悲しくなる。

 

子を持ったそれだけなのに、友人が凄い勢いで遠ざかっていくような気がしてしまう。

神様、これは何かの罰ですか?

これまでの行いの報いですか?わたしの魅力の欠落ですか?

 

 

我が子の口にスプーンで離乳食を運びながら、涙が流れた。

いやいや、泣くなよ、配達員さんと話し込めなかったってだけだぞ。

事の小ささは分かっているのに、とてもとても孤独で、惨めだった。

誰とも会えない今日がまた終わる。

抱きしめられた、子の腕に

午前中から昼頃にかけて、ちょっと無理したおでかけ。

慣れないことに疲れがたまり、お昼寝は家族3人で爆睡。

目を覚ますともう17時で、ぐっすり寝たのはいいけどこの時期空も真っ暗で、気持ちも同時に真っ暗。とっぷり暮れて、メンタル駄々下がり。

何をしながらでも、ごめんね、ごめんね、とつい口にしてしまう。

 

夕食後、落ち込んだ気持ちを夫にぽつぽつとこぼしていた。

ローソファに座る夫、それに正対して床に座っているわたし。子はわたしの真後ろにいて、録画の幼児用番組を観ていた。ベビーサークルにつかまり立ちして、ごきげんである。

心がしんどくなっていて、どうしても暗い言葉しか沸いてこない。楽しい気持ちもなくふさいでいたその時、突然、夫が「あ!」と声を出した。

なに?と訝しんだその瞬間、背中一面にあたたかい感触。

 

我が子だ。

わたしの背中を、抱きしめている。

 

とても驚いた。

え?ママのこと、抱きしめに来てくれたの?ママを慰めてくれているの?

タイミングも相まって、奇跡のようなぬくもりだった。

 

目撃した夫によると、柵から手を離し、とととっと飛び移るようにわたしの背中めがけて飛び込んできたらしい。

最近、30cmくらいはそうやって島から島へ移り渡るようになっているが、こうやって背中に向けて寄ってきたのは初めてだ。

よろけるように出す数歩も、そのうち距離が長くなり「歩行」になるのかもしれない。

 

すごい!えらい!なによりうれしい!!

ありがとう、ママはあったかくなったよ!

 

試すように、もう一度背中を向けてみた。

すると、同じようにまた背中を目標としてやってきてくれた。二度もあたたかくなる背中。

 

子が立つようになり、抱っこだけでなくぎゅっと抱きしめることもしやすくなったが、子に抱きしめられたようなかたちはこれが初めてだった。

すごく幸せな気持ちになった。

憂うつは、何処かへ飛んだ。

 

間違いなく幸せで、子どもがかわいくてかわいくてたまらなくて、それでも心がコントロールできないこういう日がある。

だけど、わたしには最強の同居人がいる。

 

家族ってあったかい。家族がいるところ、そこがわたしの住まいだ。

誕生日ギフトは新たな出会い

我が子とわたしは生まれ日が同じである。

ということは年に1度、子の月齢バースデーとわたしの誕生日が重なる。重なった。今日だ。

 

おめでとうをあなたに。おめでとうをわたしに。

 

相も変わらず夜間に泣く子を抱き上げながら、日付が変わったことを感じ取っていた。

わたしたちのめでたい日は朝からではなく、真夜中からはじまる。

 

 

誕生日とはいえ育児は休みなし、朝から支援センターに出かけた。

人数制限を行っているため、当日朝に電話予約の手順が必要な施設だ。その分ゆったりと安心安全に過ごせるものの、思い立ってすぐ出かけられないハードルの高さがある。

今日は、事前に決めていたから予約開始時刻に電話を掛けられた。無事に受付番号をゲットし、ゆったりと朝寝をさせてから向かった。

 

体調不良、それから他の児童館を開拓していたことなども重なり、少し久しぶりに訪れた。

今までの印象とは違い、人数も少なく静かだった。どうやら走ったり喋ったりする年かさの子たちは一人も来ていない模様。

今日来てるのはみんな同じ学年の子たちですよ、と職員さんがお互いをつないでくれる。

 

そのうちの一人、ハイハイで人懐こく寄ってきてくれる子がいた。名札を見ると、どことなくおぼえのある名前。脳の回路を可能性が巡る。

 

「もしかして…?」と声に出し、親御さんの顔を見る。

わたしのリアクションを受けて、相手のお母さんも「もしかして…?」と返す。

 

その、もしかしてだった。夫同士が同じ職場の、間接的に名前を聞いている、初めて会う知り合いだった。

同じ市内に住む同い年の赤ちゃん同士、いつかどこかで出会うこともあるだろうとは思っていたが、今日ここでとは予期していなかった。

瞬時にテンションが上がり、親しみが一気に沸いた。お噂はかねがね!

 

 

その赤ちゃんは、とてもコミュ強だった。

泰然自若とでもいうべき安定姿勢でどっしりと座り、周囲を関せずお気に入りのおもちゃで遊ぶ息子。そこに寄ってきてくれる、どころか微笑みかけてくれる。

 

子どもって、子どもを見て笑うんだ…!

 

「この子、子どもが好きなんです」とのことで驚いた。そんな子どもがいるのか…!

いやしかし、うちの子は他の子が近くにいてもこんな風ににこにこしたりしないんだよな…と思っていたら、微笑みかけられて嬉しそうに、にこっ。えっ!

息子がおもちゃをぐいぐいと押し付けたり、その子がそれを喜んでいるように見えたり、0才児同士で成立するコミュニケーション。

いつのまにやらまた、子が親の予想を超えていた。

 

離れて遊ばせていてもいつのまにかまた近くにいる。

うちの子が遊んでいるおもちゃに、可愛らしく寄ってくるその子にわたしもめろめろ。なんて愛らしい!

上から下へ折り返しながら降りてくる車のおもちゃを、2人並んで目線を左右に追っている姿はたまらないなんてものじゃなかった。

声を出し、それに答え、喃語同士でおしゃべりするだなんて、知らなかった。

あなたたち、実はずっと前からお友達だったの?遺伝子が知り合いだったの?って母親2人驚き合った。

もし家に双子の赤ちゃんがいたらこんな風に育つんだろうか。

奇跡みたい、と思った。今後当たり前のようにお友達と過ごすようになると、きっと奇跡とは感じなくなるのだろうけれど。

 

穏やかな空間だった。

クリスマスツリーの飾りを制作させてもらえて、飾ってくれた。子どもが選んだ赤い水玉模様のリボンをてっぺんにつけた。

おもちゃの取り合いもなく、そっちはだめだと止めることもほぼなく。水でおえかきするおもちゃも初めて触って、おもしろかった。

こんな少人数の日があるとは知らなかったし、職員さんも初めて自分の子の話をしてくれたりして嬉しかった。

今度のクリスマス会のお知らせをもらって、招待券を受け取った。次の楽しみができた。

 

ああ、なんだ。

休日無しな育児だけど、子のための外出でハッピーになれて、わたしラッキーじゃん。

 

母になって初めてのバースデー。

この年になっても新たな出会いがあるって幸せなことだ。

子が、夫が、もたらしてくれた今日という日の恵みに感謝した。

 

今日出会った人たちはわたしの誕生日を知らない。だから、わたしに「おめでとう」と言ってくれることはないけれど、子を慈しんでくれる。

それだけで充分に、あたたかなギフトだ。