こんなことで泣かなくても、と自分でも分かるくらいに些細なことで、泣いた。
涙がつーっと溢れて、子どもに不思議そうな顔をされた。
心配させてごめんね。ママ、まだ産後から抜け切ってないみたい。
もう1年になるのにね。あなたはもうすぐ1才になるのに、ママは成長できてないや。
今日は、オムツ宅配の日だった。
自治体が取り組んでくれている子育て支援の一つで、月に一度オムツなどの注文品を届けがてら様子を見に来てくれるというもの。今月で満1才を迎えるにあたり、その最終回だった。
わたしは、待っていた。
先月は児童館に行く日で配達員さんと直接会えず、子どもを見てもらう機会を一つ逃したことが惜しくてならなかった。
今日は最終回でもあるし、ぜひ子どもを見て、その成長を一緒に喜んでほしかった。人見知りであんなにギャン泣きした日もありましたよね、と笑って終わりたかった。
このオムツ宅配、子育て支援で有名な某市がアピールすることも多く、保護者の孤立対策や虐待発見などの意義も含めよく褒められているのを目にするが、実際はわずかに難有りなシステムである。
第一に、注文は月に一度、配達の3週間前までに確定させなければいけない。初めての子育てでオムツのサイズアップも手探りな中、もう少し期限が配達日に近ければ様子見しやすいのに…と思うことも少なくなかった。
第二に、配達時間は指定できない。9:30~14:00の間に伺います、とメールが来る。おそろしく身動きが取れない。置き配も可能だが、直接会わないで済ませられるのでは理念に沿っていないだろうと思うのだった。
そんな不自由もありつつ、月に1度の予定は楽しみだった。顔と名前を覚えた配達員さんに、話を聞いてもらえる。「お母さん、困ったことない?」それはただの聞き取り作業だと理解しつつも、対話は嬉しかった。社交辞令だとしても、大きくなったね、と子どもを可愛がってくれるのはその1ヶ月の頑張りを認められたようだった。
誰かに会うという機会が少ないがために、異常に重たく捉えてしまっていた。
最終回の今日、朝から待っていたが来なかった。そろそろ来るかなという時間に外に出てみたが来ないので、子どもをベビーカーに乗せ、家が見える範囲でうろうろしてみた。近隣の、いつもなら我が家に来た後に寄っている家の前にトラックがあるのが見えた。玄関先で談笑している様子が見える。じゃあこの次か、と待った。が、来なかった。再度見に行ってみるともうトラックは何処にも居なかった。
朝寝させてのちしばらく待ったが、結局午前中には来なかった。宅配を受け取ったあとそのままの流れで買い物に行こうと準備をしていたが、諦めて昼食にした。いつもよりも遅いお昼を食べさせていると、その時トラックが家の前に止まった。何故、今。
逡巡したが、慌てて玄関先に出た。「いつもより遅くなってごめんなさい」「こちらこそ、今お昼食べさせてて」「それじゃあ、すぐ戻った方がいいね」
最後だし子どもにも会ってほしくて、ちょっと連れてきましょうか。と言ったが、当たり前に断られた。それは紛うことなき気遣いだった。長々と引き留められて子どもにお昼を食べさせられなかった、なんてクレームを受けたくもないだろうし。
だけど、子どもを見てほしいのは本心だった。
早口の「何か困ったことない?」には「無いです」と言うしかなかった。ここで、実は…なんて長々話し出したらどうかしている。
いつもより配達に時間がかかっているということは、ノルマを回り切れていないのだろう。これ幸いと、急いでいるように見えた。
「それでは、ありがとうございました」
来訪者は、子どもの顔を見ることなく去っていった。
今日、思い描いていた風景は全て崩れ去った。
大げさに言うと、小さな夢と言ってもいい。叶わなかった。
短時間で済んで助かったのは事実だ。子どものご飯を優先させるのも親として当然だ。
だけど、タイミングさえ合えば、理想の最終回を迎えられたはずだったのに、実現しなかったことが悔しかった。
せめて「会えないのは残念だけど、〇〇ちゃんに会いたかったわ」と言ってほしかったんだと、後から思った。
その気持ちを求めていたんだと。仕事でやって来ているただの他人に求めてしまっていたんだと。
なんて孤独なんだ、わたし。お話に出てくる、人里離れた家に住む老人がお客に大喜びするみたいな、滑稽な姿。
落ち込む自己認識だった。
惨めさが、別の惨めさを連ねて引き出してくる。
友人が「今度行くね」と言ったまま、訪ねてきてはくれていないこと。
関西には「行けたら行く」を信じてはいけないという共通認識がある。
他県からやってきたわたしはその文化に馴染むまでしばらくかかったが、今はもうちゃんと、期待を少なく持つようにしている。
だけど、春になったら会いに行くよと自ら言ってくれて、交通手段まで確認してくれた友人。
秋の連休で訪ねるね、と具体的に約束してくれていた別の友人。
みんなまだ我が子に会いに来てくれていない。
本当は、社交辞令だったのかもしれない。
そう考えるとこちらからは催促もしづらい。何しろ、差し出せるものは何もない。遠路はるばる来てもらっても、何もメリットを与えてあげられない。見せてあげられるのは子だけ。こんなにかわいい我が子だけ。でもそれって、親バカの押し付けじゃない?
来て来て、見て、会って、と一方的に求める気持ちの痛々しさを、今日のような時にふと思い知らされる。
想うほどには想われていないことを、痛いほど教え込まれている。
みんな、わたしよりも大事なものがあるんだと、当然の事実に悲しくなる。
子を持ったそれだけなのに、友人が凄い勢いで遠ざかっていくような気がしてしまう。
神様、これは何かの罰ですか?
これまでの行いの報いですか?わたしの魅力の欠落ですか?
我が子の口にスプーンで離乳食を運びながら、涙が流れた。
いやいや、泣くなよ、配達員さんと話し込めなかったってだけだぞ。
事の小ささは分かっているのに、とてもとても孤独で、惨めだった。
誰とも会えない今日がまた終わる。